携帯天皇

●プロローグ
 西暦五二七年。大倭(現在の奈良県)に位置する小高い丘の上に、立派な宮殿が建っていた。その宮殿と麓の間には、よく手入れの行き届いた美しい竹林。なだらかな斜面に、人が歩けるぐらいの間隔で青々とした竹が勢い良く、澄み切った夜空に向かって伸びている。
 白くなった竹の葉が覆う地面に、ぽつ、ぽつと並んだ赤い斑点を、茂る葉の天井から漏れた月明かりが鮮明に照らし出している。真夜中にしては奇妙に明るいその不気味な空間の中を、一人の男が麓に向けて一心不乱に駆け抜けていた。整っているが妙に青白い顔は、大人びているようでいて、まだ若い青年のようでもあった。両方のこめかみの辺りで結った髪の間から覗くその表情からは一切の感情が読み取れず、細い眉の下の鋭い目はただ目の前を一点を見つめているようだった。色鮮やかで分厚い装束を身に纏ったその男は、先程から少しも疲れた様子もなく黙々と地面を蹴り続けている。
 男は「敵」に追われていた。つい先ほどまで何人もいた味方が、一人、また一人と数が減っていき、気が付けば自分一人になっていた。宮殿は既に「敵」の手に落ちていた。男に目指す場所はなかった。竹林へと逃げ込んだのは、整備された道だと待ち伏せされていることが目に見えていたからだ。今や男の目的はただ一つ——「時間を稼ぐこと」だった。
 竹林の出口が見え始めたとき、男の目の前に影が立ち塞がった。「敵」だった。男はすぐさま方向を変え、真横へと飛んだ。たった今男がいた場所には竹の葉が舞い上がり、それが地面に着く頃にはとうの昔に男の姿は見えなくなっていた。
 しかし程なくして、男の足は止まった。男の前には、再び「敵」の姿があった。いや、今度は前だけではない。男は四方から囲まれていた。これにはさしもの男も身動きが取れない様子で、男を取り囲む「敵」たちは警戒しつつも、確実に包囲の輪を小さくし、じりじりと男を追い詰めていった。
 時間にして一分にも満たない静寂だったろう。誰が合図するでもなく、まるで計ったように、「敵」全員が一斉に手にした武器を振りかぶり、男に襲いかかった。直後。何かが爆発したような凄まじい音が轟くと共に、男がいた付近一帯から鳥の群れが慌ただしく飛び立った。

●第一章
「わっ、びっくりした! 何の音!?」
 ――西暦二〇五六年。福井平野の中央付近に位置する足羽山の、色とりどりの木々が生い茂る中腹あたり。たった今まで途方に暮れて膝を抱えていた少女——橘沙月は、突如鳴り響いた爆音に目を丸くし、間の抜けた声を上げた。
 ショートヘアーを後ろで束ねた、シンプルなポニーテール。焦茶色のスカートと、黒のブレザーの胸元に小さめの赤紫のリボン。私立・南春日原高校の制服だ。カーンと晴れた青空と、黄色や赤に彩られた見事な景色に囲まれた山道の途中で、沙月は一人場違いのように見すぼらしい顔をして地面に座り込んでいた。
 秋にしては少々日差しの強い、じんわりと汗が滲み出るような昼間。この日、沙月たちのクラスは遠足のためこの足羽山に来ていた。今頃は皆、一年のうちほんの数週間しか味わうことのできないこの素晴らしい景色ももう見飽きたとばかりに、空っぽの胃袋に忙しく食事を詰め込んでいる最中であろうか。それとも流石に、沙月の帰りが遅いのを心配してざわつき始めた頃か。
 仲間たちのいる広々とした公園にある公衆トイレは、間の悪いことに女子トイレが故障して使えなくなっていた。それで仕方なく、公園から歩いて十五分ほどのところにあるもう一ヶ所のトイレで用を足すことを余儀なくされた沙月であったが、その帰りで道に迷ったのだった。というのも道がやたらと細く曲がりくねっており、何ヶ所か道の合流する場所を通らねばならなかった上に、木でできた簡素な案内板も雨風に晒されて朽ち果て、何が書いてあるかも分からない有様になっていたのだ。行きは道なりに進めばそれで良かったが、帰りは分かれ道の連続である。それに、行くときはトイレを我慢するのに必死でろくに周りを見ていなかったのが敗因だった。
「はーあ。皆心配してるかな……」
 ため息をつき、少し大きめのバッグからスマホを取り出した。先ほどから何度繰り返したかしれない動作。画面のロックを解除すると、そこにはこれまた何度目にしたか分からない文字列が現れる。
 
「天皇インストール中」

 先ほどから、沙月のスマホは画面にこの謎の文字列を表示するだけで、他にはうんともすんとも言わない。持ち主である沙月がいかなる操作をしようとも一切受け付けず、電源ボタンを押して再起動しようとしても、シャットダウンすらできない。勿論、ナビ機能も使えなければ、誰かに電話をかけることもできない。沙月は諦めて、さっさとスマホをバッグに仕舞った。重い腰を上げて立ち上がり、お尻に付いた土を払う。
「あっちの方からだったよね……」
 爆発があったと思しき方角を向いて、呟く。こうなったらいっそ、この方向に進んでやろうかという気が起こってきた。半ば自暴自棄である。テロリストが居ようが何が居ようが、こんな誰も来ないところでじっとしているより遥かにましなように思えてきたのである。
 しかし、沙月がその方向に足を進めようとした、そのとき。
「そっちへ行ってはならん!」
「はい?」
 驚いて辺りを見回す。誰もいない。だが、確かに声が聞こえた。それもかなり近くからだ。
「……怖」
 急に気味が悪くなった。どこの誰か知らないが、見られているらしい。一刻も早くこの場を立ち去りたいと思ったが、下手に動くとさらに迷う可能性がある。どうすべきか考えあぐねていると、
「今すぐそこから離れよ! 『敵』が近づいておる!」
また聞こえた。しかし今度の声で、ピンと来た。少しくぐもった声。背中に背負っていたリュックサックからスマホを取り出すと、果たして、そこから再び声が聞こえてきた。
「こら、聞いておるのか!?」
 沙月は安堵した。僅かながら、幽霊や妖怪の類の仕業かと疑っていたのである。恐らく、何かの拍子に自分のスマホから誰かに電話が掛かってしまったか、誰かから掛かってきた電話を取ってしまったのだろうと思い、マイク部分に向かって
「あの〜、どちら様でしょうか?」
と尋ねた。すると、
「何だと? 何故朕のことを知らん! 貴様こそ何者ぞ!?」
と妙な返事が返ってきた。
「変な喋り方……。イタズラ電話かな」
 少し不快になった沙月は、通話を切ろうと液晶画面に指を伸ばした。……しかし。
「あれ?」
 沙月は眉をひそめて、スマホの画面を見た。通話中ならば当然あるはずの、受話器のアイコンが画面に表示されていない。その代わり、妙なマークが表示されていた。円の中に、大小二つの丸と三日月。何かの紋章のようだ。さらに沙月は、不吉なことに気が付いた。先ほど沙月が爆発音のした方へ行こうとしたとき、この声の主は「そっちへ行くな」と言った。やはり、どこからか見られている?
 そのとき、沙月は遠くの方に見える人影に気づいた。先ほど爆発音が聞こえてきた方角だ。沙月の方に向かって歩いてくる。沙月の表情が俄に綻んだ。地獄に仏とばかりに、その人影に向かって声をかける。
「すいません! ちょっと道をお尋ねしたいんですけど!」
 しかし、人影は反応しない。ただ淡々と、沙月の方に向けて歩を進めてくる。
「? あの〜……」
 ここでようやく、相手の様子がおかしいことに沙月は気がついた。

(続く)